螺旋脱線.後


季節の変わり目にふと表れる,どうしようもなく嘘くさい瞬間が堪らない.
梅雨明け間近の夏の入り口.もうそろそろ19時にもなろうというのに,未だ日は沈まない.沈まない夕日は,雲に隠れて今は見えない.
朝焼け夕焼けの赤さなどは最早見慣れたものだが,西向きのベランダからぼんやりと流し込まれる青色の光というものは,思いの他新鮮であった.
ベランダに出てみると,昼間の濃密な熱気は何処へ退避したのか快適なまでに涼しく,青い陽の光に晒された外の光景と相まってまるで嘘みたいに寒々しい.
嘘みたいな光景だが,嘘ではない.稀に訪れるもので,しかも頻繁に見られる光景とは相反したものだから,たまたま嘘のように錯覚してしまうだけなのだ.
たまたまの光景にたまたまの錯覚.そういった偶然を引き起こす確率が高密度で凝縮された時空が,今であり,此処であった.
この青い光を体験出来た幸運な人間が,自分以外にどれだけの人数いただろうか.見逃してしまった人,見ても気づかなかった人々は,不幸ではないものの,不平等な扱いを受けたことになる.嘘みたいな現実の青い陽の光は,万人に平等に訪れる訳ではない.
対して空の青さは,万人に対し平等だ.海の青さはそうではない.たまたま地上に降り注いだ青い陽の光は,平等ではなかった.
地上で見られるものは,須く不平等だ.空の青さは平等ではあるが,誰もが平等に辿り着けない.遠くから眺めるだけ.


嘘が嫌われるのは,嘘が万人に対して不平等だからだ.
嘘みたいなもの,というのも同じだ.万人に対して平等に見られないもの,偶然の蓄積から生み出され,たまたまそれが生まれる瞬間に立ち会った人間だけに訪れるものだ.
万物は有限である.有限である以上,万人に対し平等に分配されることはありえない.それはつまり,嘘みたいなものだ.世界は嘘みたいなもので出来ている.嘘みたいなものの積み重ねで構築されている.


対して真実というものは,万人に対し平等だ.人に限らず,動物にとっても,自然にとっても,神にとっても平等で無ければならない.よって人間は,真実を確認することは出来ない.
だから人々は,真実を得られないまま生きていく.嘘みたいなものに囲まれて生きていく.逃れられない.
しかし人間は,嘘みたいなものに囲まれながら,決して辿り着くことが出来ないと知っていながら,真実を追い求める.永遠に真実は得られないが,それを追い求める行為によって価値のあるものが生み出されることが多々あり,それは人類の財産となる.
真実という概念の存在価値は,つまるところ,そこにあると言って良いだろう.

丸くなった

近所にラーメン二郎という名のラーメン屋があって,好きで良く通っていたのだけど,その店が先月,店舗を移設した.とは言えすぐ近くへの移設だったので,まだ充分通える距離にある.
それで今週,遂に新店舗に行ってきた.店長らしき人は,当然ながら前と同じ.従業員が増えて,店舗も一回り大きくなって,駐車場駐輪場も完備されて,事業拡大と言った感じ.前から行列の絶えない店だったし,そこで規模を大きくするための移設だったのだろう.


ところでこのラーメン屋,性質は硬派である.客に媚びる意思が殆ど感じられない.注意書きに顔文字が使われているなどのお茶目要素は僅かにあるものの,店員さんは基本的に不愛想である.
中でも,最も硬派要素を露骨に反映しているのがメニューである.最もスタンダードなメニュー,小ラーメン,麺重量300g.決して少ない量ではない.少なくとも,一般のラーメン屋ならば大盛+αの量である.スープは至って濃厚.野菜も大盛,チャーシューは塊の豚肉をごろごろ.
300gという重量が硬派な訳ではない.もっと大きなサイズのラーメンを出す店はそれなりにあるだろう.あのボリュームとインパクトに対して平然と“小ラーメン”と名づけられる神経が硬派なのだ.そして二郎においては,小ラーメンが最小サイズであった.


そんな硬派なラーメン二郎が店舗移設と知った時,まず私の中に生じたものは「丸くなってしまうのではないか」という危惧であった.
人気に対して明らかに小さな店舗から,立地の良い大通り沿いへの移設.インディーズバンドのメジャーデビューに近い何かを,私は感じてしまった.
人気が出れば,より幅広い客層へと対応するのがビジネスの流れ.あの凶器じみたラーメンでメジャーに立ち向かって行くのか,それとも,かつての輝きは失われてしまうのか,それだけが不安であった.


その様な危機感を抱いて挑んだ新生二郎であったが,果たして小ラーメンのクオリティは以前と変わらぬものであった.価格も前と同じ.大ラーメンは30円ほど値上がりしていたが,そもそもが安過ぎたのだ.
しかし私は,小ラーメンの隣に見慣れぬ新メニューを発見する.
新メニューの名は“プチ二郎”.麺重量180g.
そう,遂に小ラーメン最小サイズ時代は幕を閉じたのだ.それと同時に,日本屈指の巨大サイズを誇る“プチラーメン”が誕生した訳でもあるが,そんな具合に妥協案を見出したらしい.
そういう訳で,新生二郎は尚硬派でありながら,僅かながら丸くなったのであった.

もっと相手を尊重してみては?


理屈の通じない相手というものに,たまに遭遇することがある.
決定的な理由は価値観の相違であり,子供ならまだしも,長年に渡る人格形成を経た成人以降の人間や,まして目上の相手ともなると,相互理解及び解決はもはや永久に不可能であると言って過言でないように思う.
どうしたら分かり合えるの?の答えは,どうやっても分かり合えません,以外に無い.
分かり合おうとしたこと自体間違いであるし,元を辿れば,相互理解を要求される状況に両者が置かれたことこそが,致命的な間違いだったのである.合掌.
それでは,何かしらの事情で,決定的な見解の相違を有した二者が協力関係を築かなければならない状況に置かれた時(現実は,なければならない,などという極限状態には,滅多に陥らないものだけれど),果たしてどうするべきか.
相互理解が不可能なのだから,理解しないまま,やっていくしかない.つまり,思想は相反したままで構わないから,行動においてのみ合意しあえば良い.思想は不可侵の領域である.言動が一致していれば問題無い.思想は悉く言動に反映されるが,必ずしも一致しない.
それすらも不可能であると主張するなら(考えるなら,ではない),最早決別するしかあるまい.結局,協力するメリットよりも,衝突によるデメリットが大きいというだけの話である.そういう判断を,もう少し前向きに捕らえられないものだろうか.


しかし社会というものは不都合に出来ている.人間関係を清算することがあまりにも面倒なのだ.関係を絶つにあたり,絶望的なまでに多大なエネルギーを要求される.
当然社会にもよるのだろうが,例えば,アカデミックポストにおける人間関係の煩雑さと言ったら,それはそれは酷い物で,人間関係の維持に想像を絶する程の無駄なエネルギーが注がれているらしい(8割方想像で書いている).そんな暇があったらもっと研究してはいかがか?という素朴かつ極めて全うな意見を有する学生は,全国に結構いるはずだ.


少々話が脱線したので話を戻すが,意見の合わない相手に出会った時,大別して二通りの対処法が考えられる.
ひとつには,議論(もしくはそれ以外のもの)を通じて合意を図る,という方法.もうひとつは,そういう相手とは関わらない,という方法.
そういった対応に対して,更に二通りの評価が考えられる.
前者の対応は,良好な人間関係を保とうとする意識が感じられて好感が持てる.後者の対応は人間味が感じられず,冷たいというのが評価その1.
前者の対応は,どちらか(もしくは両方)の意見が確実に捻じ曲げられる,身勝手な行動である.というのが評価その2.後者の対応は,少なくとも相手の思想を傷つけることは無い.
私が言いたいことは,自分の思想を周囲に押し付ける人間が不気味で仕方無い,ということである.
行動の強制,ならば,まだ理解出来る部分もあるのだが(色々大変なのだろう),“そういう発想は信じられない”とか“これが世界の常識”だとか,そういう事を思うだけなら良いのに,相手に押し付けて無理やり納得させようと試みる人間が存在するらしく(という事を最近ネットか何かで知った),酷く嫌悪の念を感じた次第である.
どの程度の割合で存在しているのかは良く分からないが,きっと天文学的な確率であると思われる(9割方妄想で書いている)ので,この文章を読んで特定の人物像が思い浮かばない人は,それほど心配することも無いと思われる(保障はしない).

シュレディンガーの猫,可哀想な猫.

最近,シュレディンガーの猫におけるパラドクスとかいう問題が存在することを聞いて(今更か),それに関する記述をほんの少しネットで読んだのだけれど,結局,何がパラドクスなのか分からなかった.
最初は初心者向けの自然化学を講釈しているのかと思ったのだが,どうやらそうでは無いらしい.何せ数式がひとつも出てこない.
答えを知っている人間が真相を巧妙に隠し,ある事象のほんの一部分を断片的に提示して見せて「ほら,おかしいじゃないか」と声を上げ,一通り混乱が流布したところで真相を提示し,聴衆のリアクションを見て楽しんでいるような雰囲気を感じた.まるでミステリィ小説を読んでいるようだった(ミステリィ小説はそこそこ読むものの,所謂トリックを看破出来た経験は一度も無い).
そもそも謎など無かった,という結論など,如何にも推理小説じみている.詰まるところ,頭の体操か何かをしていたのだと思う.
ああ,でも,パラドクスなんてものはそもそも存在しないものなのだから,普通ジョークになってしまったね.

螺旋脱線.前

小腹が空いたもののわざわざ料理をするのも面倒なのでカップ麺を食べることにした.最近いつもこの調子だ.コンロ奥の壁に掛けられた鉄製フライパンが泣いている.いつまでもこんな体たらくでは涙でフライパンが錆びてしまいそうなのでたまには一念発起して気合の入った炒め物でも作ってやらなければと常々思うのだがスーパーに何度足を運んでも毎回油を購入するのを忘れてしまう.こんな体たらくでは大気中の酸素と前回料理した際にふき取り損ね鍋の表面に付着したままの塩分と洗い物の度に生じる飛沫の湿り気とが相まって自慢の鉄製フライパンにみるも無残な赤錆が,であるのだが手元のキッチンペーパーで表面を軽くなぞってやるだけの思いやりすら今の私には欠けている.
そんなことを考えつつシンク下部の戸棚をおもむろにまさぐってはみたものの出てくるのはやれ鰹節やら摺りゴマやら湿気を吸って乾いたウェットティッシュみたいになった海苔やらばかりで肝心のカップ麺は一向に見当たる気配が無い.殆ど消費されていない1リットルペットボトル入りの味醂やらチャックが開きっぱなしの唐辛子やらを掻き分けて遂に目的の赤い狐へと辿りついた.赤い狐と言うと何やら血塗れの亡骸やら唐辛子塗れの剥製やらが連想されがちであるがそれは自分の妄想の中の話である.赤いという枕言葉が付いてしまえば自然と平仮名のきつねを連想するのが一般人にとってはパブロフの犬的お約束として認知されるまでテレビCMの影響やら広告戦略やらが徹底されかくして日本総国民に対するイントラナショナライゼーションは緩やかに達成されたのであった.
私は何を考えているのか.何も戦後日本における資本主義経済の発展様式について考察するためにシンクの下を漁っていたのではない.こうしてふとした弾みで現実と妄想の境界を失ってしまうのは悪い癖であると常々認知しているもののこの様な性分は何も私に限ったことでは無い.街中見回してみれば公衆の面前で妄想に耽っている輩などいくらでもいる.溢れかえる人々は一見時間と空間を共有している様に見えるがそれはあくまでも上っ面の話である.各々が各々の目線で世界を認識し各々の妄想の中で世界を再構築しているのだ.その中でも最も平均的で無難且つ最大公約数的性質を有した世界観の極一部が未来へ残留しそれに漏れた妄想を抱いた者は現実と空想のギャップに一頻り落胆したのち現実と乖離しないよう僅かな軌道修正を施した上で妄想を再起動する.時として外部への応答が不可能となったり再起動しても更新を反映出来なかったりする輩が台頭してくるがそれを例外として処理する社会的システムは現状においてある程度整備されているので瑣末な問題である.
ふと気が付くと掴んだ赤い狐の最外殻と言える透明なフィルム部分を剥がすのに手間取りながらそんなことを考えている自分が居る.いつもいつも思考が横道に逸れてしまうのが悪い癖であると重々承知しているのだがあまりそのことに意識を費やすとそこからまた現実からの脱線が誘発されてしまいいつまで経っても私は前に進めない.赤い狐は干からびた剥製のまま皮を半分剥がれたまま.

マックイメージ

マッキントッシュではなくてマクドナルドの方. 
またクーポンフェアをやっている.非常に結構なことで,クーポンの出る期間は足繁くマクドナルドに通うのが私である.
逆に,クーポンの無い期間は一切使わない.あまりにも頻繁にやるため,もはやクーポン価格で無いと損した気分になってしまうから.
実際,普段はそんなに安くない.というより,他のファストフード店に比べれば安めなのかもしれぬが,商品と照らし合わせて妥当な感じがしない.
安さを売りにするのは手っ取り早い方法だけれど,その後に価格を釣り上げる際に余計な苦労が掛かる.諸刃の戦法である.
その理由は単純で,先に植えつけられた安物という先入観を払拭するのが,極めて困難なためである.
先入観を持って物事を見るのは良くないだとか,昔ではなく,現在あるものを見て判断しろだとか,そういった指摘が考えられるけれども,残念ながら,そういう問題ではない.
以前にあれほど安い価格で売っていた,という実績が確かに存在するのだ.ゼロからのスタートではない.マクドナルドで高価なハンバーガを販売するのは,新たに高級志向のハンバーガショップを開店する以上に困難であろう(いやまあ,販売するだけなら簡単だろうけれども).
企業に限らず,人間についても同様のことが言える.自分を安売りすると,相手によっては,挽回するのはもはや不可能に近い.

バカリズムの

架空升野日記

架空,と冠するだけあって,内容はフィクションの御様子.
ブログの名を借りた壮大な連載小説.
小林賢太郎とタッグを組むだけあって,かなりのハイセンスとローソサエティを感じる.
一部,リンクが壊れている記事があって,上手いことやらないと読めないのが悩み処.
2006年1月分は,何故か携帯からだけ読める.