もっと相手を尊重してみては?


理屈の通じない相手というものに,たまに遭遇することがある.
決定的な理由は価値観の相違であり,子供ならまだしも,長年に渡る人格形成を経た成人以降の人間や,まして目上の相手ともなると,相互理解及び解決はもはや永久に不可能であると言って過言でないように思う.
どうしたら分かり合えるの?の答えは,どうやっても分かり合えません,以外に無い.
分かり合おうとしたこと自体間違いであるし,元を辿れば,相互理解を要求される状況に両者が置かれたことこそが,致命的な間違いだったのである.合掌.
それでは,何かしらの事情で,決定的な見解の相違を有した二者が協力関係を築かなければならない状況に置かれた時(現実は,なければならない,などという極限状態には,滅多に陥らないものだけれど),果たしてどうするべきか.
相互理解が不可能なのだから,理解しないまま,やっていくしかない.つまり,思想は相反したままで構わないから,行動においてのみ合意しあえば良い.思想は不可侵の領域である.言動が一致していれば問題無い.思想は悉く言動に反映されるが,必ずしも一致しない.
それすらも不可能であると主張するなら(考えるなら,ではない),最早決別するしかあるまい.結局,協力するメリットよりも,衝突によるデメリットが大きいというだけの話である.そういう判断を,もう少し前向きに捕らえられないものだろうか.


しかし社会というものは不都合に出来ている.人間関係を清算することがあまりにも面倒なのだ.関係を絶つにあたり,絶望的なまでに多大なエネルギーを要求される.
当然社会にもよるのだろうが,例えば,アカデミックポストにおける人間関係の煩雑さと言ったら,それはそれは酷い物で,人間関係の維持に想像を絶する程の無駄なエネルギーが注がれているらしい(8割方想像で書いている).そんな暇があったらもっと研究してはいかがか?という素朴かつ極めて全うな意見を有する学生は,全国に結構いるはずだ.


少々話が脱線したので話を戻すが,意見の合わない相手に出会った時,大別して二通りの対処法が考えられる.
ひとつには,議論(もしくはそれ以外のもの)を通じて合意を図る,という方法.もうひとつは,そういう相手とは関わらない,という方法.
そういった対応に対して,更に二通りの評価が考えられる.
前者の対応は,良好な人間関係を保とうとする意識が感じられて好感が持てる.後者の対応は人間味が感じられず,冷たいというのが評価その1.
前者の対応は,どちらか(もしくは両方)の意見が確実に捻じ曲げられる,身勝手な行動である.というのが評価その2.後者の対応は,少なくとも相手の思想を傷つけることは無い.
私が言いたいことは,自分の思想を周囲に押し付ける人間が不気味で仕方無い,ということである.
行動の強制,ならば,まだ理解出来る部分もあるのだが(色々大変なのだろう),“そういう発想は信じられない”とか“これが世界の常識”だとか,そういう事を思うだけなら良いのに,相手に押し付けて無理やり納得させようと試みる人間が存在するらしく(という事を最近ネットか何かで知った),酷く嫌悪の念を感じた次第である.
どの程度の割合で存在しているのかは良く分からないが,きっと天文学的な確率であると思われる(9割方妄想で書いている)ので,この文章を読んで特定の人物像が思い浮かばない人は,それほど心配することも無いと思われる(保障はしない).