螺旋脱線.前

小腹が空いたもののわざわざ料理をするのも面倒なのでカップ麺を食べることにした.最近いつもこの調子だ.コンロ奥の壁に掛けられた鉄製フライパンが泣いている.いつまでもこんな体たらくでは涙でフライパンが錆びてしまいそうなのでたまには一念発起して気合の入った炒め物でも作ってやらなければと常々思うのだがスーパーに何度足を運んでも毎回油を購入するのを忘れてしまう.こんな体たらくでは大気中の酸素と前回料理した際にふき取り損ね鍋の表面に付着したままの塩分と洗い物の度に生じる飛沫の湿り気とが相まって自慢の鉄製フライパンにみるも無残な赤錆が,であるのだが手元のキッチンペーパーで表面を軽くなぞってやるだけの思いやりすら今の私には欠けている.
そんなことを考えつつシンク下部の戸棚をおもむろにまさぐってはみたものの出てくるのはやれ鰹節やら摺りゴマやら湿気を吸って乾いたウェットティッシュみたいになった海苔やらばかりで肝心のカップ麺は一向に見当たる気配が無い.殆ど消費されていない1リットルペットボトル入りの味醂やらチャックが開きっぱなしの唐辛子やらを掻き分けて遂に目的の赤い狐へと辿りついた.赤い狐と言うと何やら血塗れの亡骸やら唐辛子塗れの剥製やらが連想されがちであるがそれは自分の妄想の中の話である.赤いという枕言葉が付いてしまえば自然と平仮名のきつねを連想するのが一般人にとってはパブロフの犬的お約束として認知されるまでテレビCMの影響やら広告戦略やらが徹底されかくして日本総国民に対するイントラナショナライゼーションは緩やかに達成されたのであった.
私は何を考えているのか.何も戦後日本における資本主義経済の発展様式について考察するためにシンクの下を漁っていたのではない.こうしてふとした弾みで現実と妄想の境界を失ってしまうのは悪い癖であると常々認知しているもののこの様な性分は何も私に限ったことでは無い.街中見回してみれば公衆の面前で妄想に耽っている輩などいくらでもいる.溢れかえる人々は一見時間と空間を共有している様に見えるがそれはあくまでも上っ面の話である.各々が各々の目線で世界を認識し各々の妄想の中で世界を再構築しているのだ.その中でも最も平均的で無難且つ最大公約数的性質を有した世界観の極一部が未来へ残留しそれに漏れた妄想を抱いた者は現実と空想のギャップに一頻り落胆したのち現実と乖離しないよう僅かな軌道修正を施した上で妄想を再起動する.時として外部への応答が不可能となったり再起動しても更新を反映出来なかったりする輩が台頭してくるがそれを例外として処理する社会的システムは現状においてある程度整備されているので瑣末な問題である.
ふと気が付くと掴んだ赤い狐の最外殻と言える透明なフィルム部分を剥がすのに手間取りながらそんなことを考えている自分が居る.いつもいつも思考が横道に逸れてしまうのが悪い癖であると重々承知しているのだがあまりそのことに意識を費やすとそこからまた現実からの脱線が誘発されてしまいいつまで経っても私は前に進めない.赤い狐は干からびた剥製のまま皮を半分剥がれたまま.