椅子と犬

ねえ、その椅子、浮いてない?
私が尋ねると彼は、当然、と答えた。
どうして浮いているの?
私が更に尋ねると、彼は、机が浮いていないからだよ、と答えた。


机が浮いてさえいれば、椅子が浮く必要は無かった。当然だろう?どちらかが浮いていれば良い。人間は、浮かないしね。椅子がバッファなんだよ。固定された机と、不揃いな人体とのミスマッチを、椅子が埋めているんだ。保ちたいのは、ひとつの快適な距離感。辻褄を合わせるための変数は一つで充分。


彼が上体を反らすと、椅子はその姿形を変える。座面と背もたれからなる二面角が鈍角となり、度が過ぎれば平面となる。彼が立ち上がりその場を離れると、椅子は浮力を失い、足元で犬のように丸まってしまう。


座ってみなよと彼が促すので、私がその犬ころに近づくと、犬は面倒くさそうに私を一瞥する仕草を見せてから、再び座面と背もたれからなる二面に姿を変え、私を受け入れる意思を示してくれた。


私は僅かな不安を抱きながらも、その椅子に腰掛けようと試みる。最初は軽くお尻で触る程度にし、感触を確かめながら徐々に体重を掛けていこうと考えていたが、いざ試してみると、体重を分散できるほど態勢に余裕が無い。


私は中腰の態勢のまま彼を一瞥した。彼は紅茶を入れる準備をしながら私の方を眺めていた。


この椅子、責任とってくれるのかな?私が聞くと、責任は僕が取るよ。と彼は答えた。


安心した私は、勢い良く私の全体重を椅子に預けた。私の体は勢い良く座面に飲み込まれ、椅子の振りをしていた犬っころは小さなうめきごえをあげ、地べたに這いつくばった。力強い反発を期待していた私は大いに裏切られ、仰向けの態勢で、憐れな犬ころを床面に押しつぶしてしまった。頭は打たずに済んだものの、お尻を軽く床面に撃ちつけた。僅かな痛みと、気恥ずかしさと、犬への罪悪感と、彼への怒りの感情が、立て続けに私を襲った。


彼は慌てた表情で私に近づき、手を取り、私をひっぱり上げてくれた。しかし私の怒りは収まらない。犬は座ったままの格好で、私と彼を申し訳なさそうに見上げている。


犬に座ることは諦め、私は元いたソファに腰を掛けた。一瞬、体が沈み込む間隔。直後に、反発。釣り合いが取れて均衡。そうだ。これこそが、私の知っている座るという感覚だ。


彼が私の隣に座り、私の体を気遣って、大丈夫?痛くない?と聞いてきた。痛いに決まっている。しかし、問題はそこではない。


どうして、座れなかったのかな?
私が聞き返すと彼は、
照れてたんだよ、そいつ。緊張して、うまく出来なかったんだ。そいつは君の魅力に惹かれて、君は重力の虜。
そんな返答をした。
彼は微笑み、その横顔を見て、私は更に気恥ずかしくなる。


気恥ずかしさを埋めるため私は、別の感情の処理に掛かることにする。まずは、椅子になれなかった犬に近づき、頭を撫でて、ごめんなさいと言った。次に彼の太ももをつねって、痛い、という彼の言葉を聞いた。


彼は席を立ち、淹れかけの紅茶の処理を再開する。私はすることが無くなったので、ソファにゆったりを腰を掛け、乱された感情の後始末をゆっくりと行うことにした。


私のお尻の痛みが収まり、犬が机の下に戻って平静を取り戻したころ、彼が2つのマグカップを持って戻ってきた。片方を私に差し出す。私はマグカップを受け取る前に、彼に尋ねたのだ。


ねえ、そのマグカップ、浮いてない?