本気を出したと聞いて

宮野ともちか氏が本気を出したと聞いて、日記を書かない訳にはいかなくなった。

いや、一応、連載再開したらブログを更新するという暗黙の約束を前記事にて述べているので
書きたいこともないけれど、無理くり更新してるだけなんだけども。


せっかくなので、漫画の話
私はあまり漫画を買わない。
集めている作品数も少ないし、年に1、2冊しか単行本が出ない作品ばかりなので
年間にしても精々10冊と言ったところだと思う(数えてはいない)。


漫画を読むには、かなりのエネルギーが要る。
読むためにはまず、漫画を読むための精神状態を確立しなければならない。
小説だったら、割と、いつでも読める。電車に乗っていても読める。
しかし、電車の中で、漫画を読む気には滅多にならない。
カバーが恥ずかしいとか、そういう理由ではない。
なんというか、小説と漫画では、読む際の精神状態の在り方が、圧倒的に異なる。
何が違うのか、よく分からないけれど、せっかくなので、理由を考えて見る。


小説は文字で出来ている。表現手段は(原則として)文章に限られる。
書き手は、頭の中にある世界や、人物の容姿、表情といった映像情報を、文章に変換する。
読み手は自然と、書かれた文章をもとに、
話の舞台である世界や、人物の容姿を、頭の中で再構成することになる。
描写が如何に写実的であったとしても、
読み手が想像可能な範囲内の映像しか、脳内では展開されない。
(小説を読んでいると、まれに、自分の頭の中で映像がイメージできない描写に出くわす。
 映像が作れなかった場面は、あとで内容を思い出そうとしても、どうしても思い出せない
 私は、脳内で映像を展開出来なかった部分は、結果として「読んでいなかった」ことと同義であると思う。
 文章全般についてでなく、あくまで小説に限った話である。)
逆に言えば、読み手が想像可能な映像ならば、どんな映像でもイメージすることが(勝手ではあるが)可能だし、
自分とはまるで無関係の物語であったとしても、自分には馴染みの絵柄で風景を描き、
節度のある画風で、登場人物の顔を描くことが(脳内において)可能である。
読み手の精神状態が映像に反映されるし、精神に見合った映像しか生まれてこない。
自分が想像もしないイメージが、急に目の前に現れることはまずない(というか、出来ない)。
これはある種の「安心」であると私は思う。人前で安心して読める小説。安心設計。


漫画は違う。映像が既に描かれている。
書き手のイメージする映像が、確実に描かれているので、
脳内のイメージが、描かれたもので固定されてしまう。
想像の余地はあるが、小説に比べれば、やや狭いと感じるし
何よりも、描かれた物を否定することが出来ない(それは読んでいないことと同義である)。
基本的に、漫画を選ぶ基準は絵柄であって、内容は割とどうでも良い(私は作者買いジャケ買いしかしない)。
絵柄が、自分の好みと一致している必要がある。合わない漫画は、読めない。
それくらい、描かれた映像の持つイメージは強く、小説に比べれば、脅迫的であるとすら感じる。
漫画を読む自分は、どこかテンションがおかしいのである。多分、映像に当てられているのだと思う。
好みの漫画を読んでいるときは、いつも気恥ずかしい感じがして、
公衆の面前で、そんな漫画を読むテンションで居られることは、ある種犯罪的であるとすら感じる。
それは「そういう漫画ばかり読むからだ」とか、「趣味が悪いからだ」言われれば、
「否定の予知もない」と全肯定するしかないのだけれど、
誰でも読める漫画とか、他人に勧めても恥ずかしくない漫画とか、面白い訳がないので
これを読んだ人も、ゆびさきミルクティーなんで読んじゃ駄目だよ、と釘を刺すくらいしか
私にできる弁解はない。