説得力というもの


最近,人の言う事が信じられない.どれ程聞こえの良い思想を語られても,所詮口でなら何とでも…と思って,穿った解釈をしてしまう.
特に,口を付いてスラスラと流れ出てくる発言に関しては,その傾向が顕著だ.その人の発言テンプレートに従って,条件反射的に繰り出されている様にしか聞こえない(最早,無条件反射では無いのか,と思える場合すらある).


二人の人間から似た内容の発言を聞いた時,片方には共感し,もう片方には反発したくなることが度々ある.
当然ながら,二者は同様の理屈を述べている.誰が語ろうが,理屈は理屈である.同様の理屈に対し,発言者によって,その理屈の正当性が異なる,などという事はありえない.
つまり私は,理屈の正当性によって,その発言を評価しているのでは無い.
それでは私は,何を基準にその発言を評価しているのか.
答えは簡単.“誰が発言したか”で判断している.
同じ理屈でも,然るべき誰かが言えば納得するし,そうでない人間が言えば,反論もしくは無視する.


つまり,説得力は,理屈そのものの正当性に付随する要素では無い,ということ.
では何に由来するかと言えば,“発言者”で八割方正解なのだが,それでは少々言葉が足りない(足りない部分の詳細については,煩雑になるので割愛する).
やや丁寧に説明するならば,“発言者の言行の一致性”である.
毎朝寝坊している人間に「朝,早く起きるべきだ」と言われても,早く起きる気にはなれない.
朝は早いものの成果を出していない人間に「早起きが優れた結果をもたらす」と言われても,そうは思えない.
逆に,いつも寝坊して成果を出していない人間に「朝早く起きても効率は上がらない」と言われても,言い訳にしか聞こえない.
重要なのは「誰が言ったか」である.“誰が”というのは,“今までに何を言い,何事を為してきた人間が”と言う意味である.


当然ながら,私のこの認識に対する一切の反論は無駄である.無駄と言うのは,私に対して説得力が発生しない,という意味である.
逆に言えば,私はこの理屈の正当性を主張するつもりは一切無い,理解を要求した瞬間に,矛盾が生じるからである(ただし,矛盾した論理が説得力を持つ場合もある).
しかしそれは,“論説である以上は無駄”と言う意味だ.
然るべき人間が,「その主張は間違っている」と一喝すれば,私の認識が即座に変更される可能性はあり得る.
その然るべき人間が,私が一切知らない赤の他人であることはまず有り得ないし,今のところ,私の周りにそういう人間は見当たらない.


以上を踏まえて,一行目の悩みに対する回答を類推すると
私は自分の居場所を変えるべきなのではないか,という提案に行き着く.