コミュニケーション能力?それって食えるの?

答え,喰えない.


コミュニケーション能力,という言葉を最近良く聞くのだけど(就活の影響か?),それってどんな能力のことよ?という疑問.
コミュニケーションは意思の疎通,即ち意思のやり取りであり,要求される成果は相互理解である.
この“相互”という部分がなかなかに食わせ者で(でも喰えない),自分の意思を的確に相手に伝えること+相手の意思を的確に理解すること,双方が両立して初めて,コミュニケーションは成立したことになる.
そこで,“仮説:コミュニケーション能力とは,a)自分の意思を的確に相手に伝え,b)且つ相手の意思を的確に理解する能力である”を考えてみた.そこで私は,極めて強大な壁にぶち当たった.


仮に,“周囲にコミュニケーション能力のあると評価される人間A氏”と,“周囲にコミュニケーション能力の無いと認識されている人間B氏”が相対した場合を想像してみよう(“周囲の”というのがポイント).この場合,A,Bの2者間にコミュニケーションは成立するだろうか?
上記の理想論を当てはめれば,答えは“イエス”である.何故ならば,自称(以下略)A氏は,a,b両方の素質を持っているからである.A氏はb)B氏の意思を的確に把握することが出来,その上で,a)自分の意見を的確にB氏に伝えることが出来るはずである.この場合,B氏の能力の有無に関わらず,コミュニケーションは成立するのである.
では実際に,A氏とB氏を仮想的に突合せ,そのディスカッションぶりを想像してみよう.あなたは(どなただ)一体,どの様な苦々しいシチュエーションを思い浮かべたであろうか.


私がぱっと思い浮かべた情景は,およそ以下に示す様な展開である.
1)B氏が“A氏から見て”一種不可解な言動を主張する.それに対しA氏は(その内容を理解し,若しくは,理解せぬままに)“A氏の認識における客観的な”筋の通った意見を返す.しかしB氏はその内容を把握出来ず,議論は平行線を辿る.
2)A氏は,B氏との議論を拒絶する.B氏にはA氏の意向が伝わらないことを悟ってしまったA氏が,自分の意見を主張することを諦める.B氏は尚も吠え続け,自論を通す.


1)の場合,B氏はA氏に“コミュニケーション能力の無い奴”と見下され,蔑まれることになるだろう.2)の場合,A氏はB氏に,“コミュニケーションする意思の無い奴”と見切られ,やはり蔑まれることになるだろう.更にB氏も,同様の理由でA氏に蔑まれることになるだろう.(A氏,B氏の力関係に付いては,適当に察して頂きたい)


コミュニケーションとは二者(あるいは多者)の合作であるが故に,それが失敗した場合“コミュニケーションの不成立は誰の不能に拠るものか”を決定付けることは(少なくともその場では)極めて困難なことであり,その決定には,客観的判断を仰ぐことが必要不可欠である.更にはコミュニケーションに於けるこの“客観”という存在そのものが,極めて曖昧な概念である.それは,大抵のコミュニケーションがある種の“ドメスティックな場”において執り行われるものであるが故である.客観的と思われる価値観が,場に応じて千変万化なのである(共通の専門分野に属する研究者同士の会話が一般人には理解出来ないであるとか,ある特定の対象に固執するコアなマニア同士が(この表現に悪意は無い),素人には理解不可能な単語を羅列して悦に浸っている(もう一度言うが,悪意は断じて無い)様子を想像して頂きたい).


では,実際にA氏が“相当に客観的なレベルで”コミュニケーション能力のある人間であった場合,B氏に対してどの様な対応を取るべきであったか,であるが,私には“議論をしない”以外の対応が思い浮かばない.つまるところ,A氏は自分の主張をある程度(ないしは完全に)引き下げ、B氏の認識のレベルに合わせるか,B氏に対してシカトを決め込むわけである.
この場合,その結果A氏は,周囲の人間に共感され,評価されなければならない.もし周囲の人間がB氏を支持し,A氏を責めるような態度を取ったとしたら,そこはA氏が本来居るべき場では無かった,ということになる.コミュニケーション能力に長けたA氏ならば,その様な環境を進んで選ぶはずが無いのである.
この場合,“正等な議論の続行を断念できる能力”こそが,コミュニケーション能力と言える.あくまでA氏との相互理解を図ろうとするB氏には,およそ真似の出来ない芸当である.


ここに至って私は,上記に立てた仮説を完全に撤廃し“結論:コミュニケーション能力とは,コミュニケーションの行われる場における客観的価値観を正確に把握する能力,そして,周囲と自分の価値観が一致する環境を獲得する能力”とせざるを得なくなった訳である.仰々しい言い方ではあるが,結局のところ“空気読む能力”ということである.実に味気ない結論になってしまったことに対しては残念至極であるが,普通の事を普通と言える自分に,私はなりたい.