心を落ち着けてみる修行

最近早寝早起きで健康的な生活ばかり送っているのでいまひとつ面白いことが思い浮かばない.
健全な肉体に宿る健全な精神なんて,はっきりいって屑である.健全な精神からは健全な発想しか生まれて来ないし,どうにもこうにも,無難な結果しか得られない.
随分と攻撃的な出だしになってしまったけれども,攻撃的な発想とか,他者や社会を意識した思想というものこそが健全性の産物であるように思う.気分が高揚して斬新な発想を閃いた時には,周囲のことなどまるで問題視していない.やけにおおらかな気分になれるし,それでいて無邪気だ.結果他人を激怒させかねない,もしくはまるで理解不能な発言をしてしまうケースは多々あるけれど,悪意はまるでない.
健全な精神,などというと,公明正大で悪意など持ち合わせない清清しい状態であるかのように思われがちだが(そうでもないのか?),私はそうは思わない.健全な人間は極めて打算的である.
対して不健全な精神状態においては,理に適わない行為も進んで実行できる.急に深夜の散歩に出掛けてみたり,意味も無く文章を書き綴ってみたり.それは非常に無駄の多い行為であるし,周囲から見れば訳が分からない.自分もたまに,後から読み直すといまひとつ内容が理解出来ない文章を書くことがある.
健全な精神でそれを目の当たりにすると,思わず削除してしまいたくなることも稀にある.というのは実は嘘で,健全な精神状態において書き綴られた,一見意味が無さそうでその実何かの効果を狙った跡が見え見えの文章こそが最も羞恥に値するものであり(そういった文章も,自分への戒めとして削除せずに残してある),真に不健全な精神で書き上げた記事に関しては,恥など感じることは無い.健全な精神では,とても到達不可能な領域であるからだ.
当ブログにおける記事の内およそ0割3分程度(正確にはπ分などということは勿論無い)が,そういった衒いの無い記事で構成されている.当然ながら,そういった文章を大事にしたいがために,日記を書き続けている.残念ながら殆どの日記は屑であるが,極少量ながら保存に値する記述が含まれている,と良いなぁなどと期待しつつ,斯様にそこはかとなく意味ありげな文章を健全な精神で書き留めているのが今の私である.恥である.