電車に乗る時、たまに思っていたことを二点

その一。健康に悪いからと言って分煙は結構徹底されているのに、人生に悪い痴漢対策としての男女分席が全く徹底されて居ない様に思う。完全に分けるのは無理だろうけど、せめて男性専用車両くらい作っても良いのでは無いか。作っても誰も座らないとか言われても、そういう問題では無い。社会的要求では無く、人権の問題である。結局、鉄道会社も企業ということか。実際のところ、それほど重大な問題として認識されていないと言う事なのか。
その二。完全禁煙のホームに煙草の自販機があるのは何故か?謎である。最寄り駅のは数ヶ月前に撤去されたけど、灰皿の撤去は2年ほど前(だったと思う)に達成されていたのだ。

PASMOは素晴らしい。

低価格の代償

先日ヘッドホンを買った.インナーイアー型の奴.オーディオ関係の知識は悲惨なくらい不足しているので(興味も無いけど),性能についての言及などをする気は微塵も無い.
以前使っていた奴が壊れたので,急遽新しいのを買うことにした.こういう時に、家から徒歩1分の距離に電気屋があるという環境は実に有難い.買った後にアマゾンで価格を調べたら,当然の如くそっちの方が安かったのだけど(500円くらい),いくら送料無料だろうが配送が早かろうが,この利便性には適わない.
ただネットの方が品揃えは圧倒的に充実しているし,きっと自分がオーディオマニアだったら,近所の電気屋で満足出来る訳も無い.結局のところ,目的に応じて使い分けるのが良いのだろうけど,こういったジャンルに関しては既に,直接店で購入する方が贅沢行為になりつつあるのではないかと思う.自分の場合,突発的な思いつきで購入を決意することが多いので,やはり店に買いに行くことが多い.


アマゾンより高かったとは言え,このヘッドホン,定価よりは3割位安く買えた.わざわざ店を構え販売員を雇うコストを考えれば,通販よりは割にあってないのではないかと思う.その変は経営努力が伺えるというか,きっと店側を頑張っているのだろう.実に有難い.
ところでこの店,購入の際,付属の保証書に判子を押さない.代わりにレシートみたいな保証書が打ち出され,その裏面に判子が押されたものを渡された.
実際故障した際,どれを店に持って来るべきかと思い,店員に「もし修理が必要な時は,付属の保証書とこの紙(判子を押されたレシート状のもの)両方持ってくれば良いのですか?」と聞いたら「でも,不注意などで壊した場合は,保障の対象にはなりません」という返答.
そんなことは聞いていない.価格を抑える為の企業努力が,垣間見えた気がした.


一応補足しておくと,特に不満は無い.これからもその店は使い続けると思う.

避けて通れない道

前回あんなことを書いておいて何なのだけど、カレー作った。しかも2回作った。チキンカレーとビーフカレー
カレールーは意地でも使わず、わざわざスパイスを買った。実際に油でスパイスを炒めて、香りを出して、とやってみると、悔しいのだけど、実に楽しい。
日本においてカレーは実にポピュラーな食べ物であって、それ故製品開発も活発に行われている。つまり、専門家によって調合されたカレールウやら何やらが簡単に手に入る訳で、素人がスパイスからカレーを作るメリットは、実のところ殆ど無いと考えられる。それなのに、何故わざわざ作るのかと言えば、これはもう、楽しいからに他ならない。材料を消費し、加工して、製品を作り上げる遊びが楽しいのである。
そう言った点から見ると、カレーは実に魅力的な対象である。使う材料が多いし、選択肢が豊富だし、そこそこ手が掛かる割に、特別困難な調理法や特殊な器具を必要としない(基本炒めて煮込めば良い)。更に、手を加えることで完成度を上げることも可能だ(濾したり、ミキサーに掛けたり、数日煮込み続けたり)。つまり、導入が手軽でありながら、カスタマイズ性が高い。趣味としては最適かもしれない。刺身やにぎり寿司では、流石にこうは行かないだろう(専門性が高すぎるというか、もはや職人やマニアの領域であると思わざるを得ない)。


カレーに限らず、ここ一ヶ月ほど、おでんやら角煮やら幾つかの料理を作ったのだけど、改めて感じたことは、自炊は贅沢行為であり、もはや趣味の領域だろうと言うこと。
余程の僻地に住んでいない限り、料理など作れなくとも、生きていくには困らない。しかも、一人暮らしで自炊をしても、経済的な得は殆ど無い。掛かる労力を鑑みれば、むしろマイナスである。
個々人の役割が高度に専門化されつつある現代社会において、“調理”という行為が、今後どれほど一般性を保ち続けられるのか、その動向が注目される昨今である。

カレー作ってない。ハヤシは作っている。

久しぶりにカレーでも作ろうかと思い、以前、最後に作ったのはいつだったろうかと考え直したところ、どうやら自分は一人暮らしを始めて以来、一度もカレーを作ったことが無いのではないかという疑問に打ち当たった。
いや、ひょっとしたら、一度くらいはあったかもしれない。しかしあったとしても、思い出せないくらいに薄弱な経験。牛肉を何時間もコトコトと煮続けた記憶は幾らでも思い浮かぶのだが、どうやらその肉達は、全てハヤシライスかハッシュドビーフを作るのに使われたらしい。
カレーを作るのは実に難しい。いや、カレールーを使えば、それこそ半端じゃないくらい簡単なのだけど、肉と野菜を加熱してルーを加えただけのモノを果たして料理と呼んで良いのかという、面倒臭がりな癖に変なところで本格志向な自分の料理スタイルに対して、カレーという料理はミスマッチなのである。
その点ハヤシライスは、デミグラスソースだけ妥協して買ってしまえば、あとはそれなりに“料理作った感”が味わえるので、実に都合が良い。そんな訳で、今日もハヤシの方を作ってしまった。


だったら、間取ってカレー粉買えば良くね?と言われれば、確かにその通りな気もするのだけど、それはそれで、何かが決定的に間違っている。
何が間違っているのかと言えば、それは恐らく“カレー”と“ハヤシ”を同列で語っている点なのだと思う。


だからと言って、“カレー”と“ラーメン”を同列に語れるかと言われると、それは全く違うのである。これは恐らく、“カレーラーメン”は存在するのに、“ラーメンカレー”になると訳が分からなくなってしまうのと同じ理由である。意味が分からないと思われた方は、どうか理解しようとしないで下さい。

暇になりがちな年末の与太話

暇になったので衝動的にゲームを買った.ヤマダ電機が徒歩一分の距離に無かったら,多分買ってなかった.
聖剣伝説4.新品のゲームを買ったのは,およそ2年ぶりくらいだと思う.


聖剣伝説の続編を語っておきながら,まさかのアクションゲーム.自分は承知の上で買ったのだけど(だからこそ買ったのだけど)前作までのファンの中でも,決して薄くないと思われるRPGファン層を潔く切り捨てる辺り,実に好感が持てる.
アクションというか何というか,一言で言えば“聖剣無双”である.今までやったゲームの中では,紅の海にかなり近い感じ.
新しい点はと言えば,やはりMONOなのだと思う.ボタン連打で手軽に虐殺!すっきり爽快!という訳には行かないので,アクションに不慣れな人には結構きつい感じがする.一方,精霊弾丸のストックさえあれば,ボス戦も物量作戦で押し切れるという救済措置もある.その辺を考慮すると,割と幅広い難易度でプレイできるのではないかと思える側面もある.


この手のゲームで陥りがちな罠と言えば,どうしても単調になりがちなところ.敵の種類が少なかったり,対処法が画一化されて,後半は作業になってしまう点だと思う.現在三章までクリア.その辺の問題を後半如何に回避してくれるか,期待している.

コミュニケーション能力?それって食えるの?

答え,喰えない.


コミュニケーション能力,という言葉を最近良く聞くのだけど(就活の影響か?),それってどんな能力のことよ?という疑問.
コミュニケーションは意思の疎通,即ち意思のやり取りであり,要求される成果は相互理解である.
この“相互”という部分がなかなかに食わせ者で(でも喰えない),自分の意思を的確に相手に伝えること+相手の意思を的確に理解すること,双方が両立して初めて,コミュニケーションは成立したことになる.
そこで,“仮説:コミュニケーション能力とは,a)自分の意思を的確に相手に伝え,b)且つ相手の意思を的確に理解する能力である”を考えてみた.そこで私は,極めて強大な壁にぶち当たった.


仮に,“周囲にコミュニケーション能力のあると評価される人間A氏”と,“周囲にコミュニケーション能力の無いと認識されている人間B氏”が相対した場合を想像してみよう(“周囲の”というのがポイント).この場合,A,Bの2者間にコミュニケーションは成立するだろうか?
上記の理想論を当てはめれば,答えは“イエス”である.何故ならば,自称(以下略)A氏は,a,b両方の素質を持っているからである.A氏はb)B氏の意思を的確に把握することが出来,その上で,a)自分の意見を的確にB氏に伝えることが出来るはずである.この場合,B氏の能力の有無に関わらず,コミュニケーションは成立するのである.
では実際に,A氏とB氏を仮想的に突合せ,そのディスカッションぶりを想像してみよう.あなたは(どなただ)一体,どの様な苦々しいシチュエーションを思い浮かべたであろうか.


私がぱっと思い浮かべた情景は,およそ以下に示す様な展開である.
1)B氏が“A氏から見て”一種不可解な言動を主張する.それに対しA氏は(その内容を理解し,若しくは,理解せぬままに)“A氏の認識における客観的な”筋の通った意見を返す.しかしB氏はその内容を把握出来ず,議論は平行線を辿る.
2)A氏は,B氏との議論を拒絶する.B氏にはA氏の意向が伝わらないことを悟ってしまったA氏が,自分の意見を主張することを諦める.B氏は尚も吠え続け,自論を通す.


1)の場合,B氏はA氏に“コミュニケーション能力の無い奴”と見下され,蔑まれることになるだろう.2)の場合,A氏はB氏に,“コミュニケーションする意思の無い奴”と見切られ,やはり蔑まれることになるだろう.更にB氏も,同様の理由でA氏に蔑まれることになるだろう.(A氏,B氏の力関係に付いては,適当に察して頂きたい)


コミュニケーションとは二者(あるいは多者)の合作であるが故に,それが失敗した場合“コミュニケーションの不成立は誰の不能に拠るものか”を決定付けることは(少なくともその場では)極めて困難なことであり,その決定には,客観的判断を仰ぐことが必要不可欠である.更にはコミュニケーションに於けるこの“客観”という存在そのものが,極めて曖昧な概念である.それは,大抵のコミュニケーションがある種の“ドメスティックな場”において執り行われるものであるが故である.客観的と思われる価値観が,場に応じて千変万化なのである(共通の専門分野に属する研究者同士の会話が一般人には理解出来ないであるとか,ある特定の対象に固執するコアなマニア同士が(この表現に悪意は無い),素人には理解不可能な単語を羅列して悦に浸っている(もう一度言うが,悪意は断じて無い)様子を想像して頂きたい).


では,実際にA氏が“相当に客観的なレベルで”コミュニケーション能力のある人間であった場合,B氏に対してどの様な対応を取るべきであったか,であるが,私には“議論をしない”以外の対応が思い浮かばない.つまるところ,A氏は自分の主張をある程度(ないしは完全に)引き下げ、B氏の認識のレベルに合わせるか,B氏に対してシカトを決め込むわけである.
この場合,その結果A氏は,周囲の人間に共感され,評価されなければならない.もし周囲の人間がB氏を支持し,A氏を責めるような態度を取ったとしたら,そこはA氏が本来居るべき場では無かった,ということになる.コミュニケーション能力に長けたA氏ならば,その様な環境を進んで選ぶはずが無いのである.
この場合,“正等な議論の続行を断念できる能力”こそが,コミュニケーション能力と言える.あくまでA氏との相互理解を図ろうとするB氏には,およそ真似の出来ない芸当である.


ここに至って私は,上記に立てた仮説を完全に撤廃し“結論:コミュニケーション能力とは,コミュニケーションの行われる場における客観的価値観を正確に把握する能力,そして,周囲と自分の価値観が一致する環境を獲得する能力”とせざるを得なくなった訳である.仰々しい言い方ではあるが,結局のところ“空気読む能力”ということである.実に味気ない結論になってしまったことに対しては残念至極であるが,普通の事を普通と言える自分に,私はなりたい.